| ◆ 再びの姜尚中教授、勝間和代さま、そして日本女性にとってのAVとは・・・ | 2009.11.27 |
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なんでも数字化することで、ものごとの本質が語れるのだ、 という方々がおられます。 100m競争のタイムでもあるまいし、 世の中のことがデーターや統計の数字で全部理解できるなんてありえない、 と考えるのでございますが、 手前どもが考える常識とはどうも違った考えを持たれておるようなので ございます。 「数字」で世の中の仕組みはおよそ解説できるのだ、 という論理の持主とはいかなる人物でございましょうか。 以前にもこのブログでご紹介しましたが 「東大大学院、姜尚中教授」などもそのお一人、 でございます。 姜教授さまは日本人の自殺者数が3万人を超えている、 これは日本社会が崩壊しつつある象徴である、 と論じられたのでございます。 一年に10万人当たり25人近くが自殺する日本、 こんな国は先進国にはありません。 色々いわれるアメリカだって自殺率は日本の半分、 イギリスは3分の1です、 とお得意とする日本社会の「崩壊論」は続いたので ございます。 データーの数字を多く引用して論理を展開しようとする 論者に見られる「悪癖」がございます。 それらの「数字」を自分の展開する「論理」に都合の良いところだけを つまみ喰いして引用する傾向があるのでございます。 姜教授さまは日本とアメリカとイギリスの「データー」を比較して 日本の自殺者数の多さを嘆き、「日本終末論」を展開したのでありますが、 何故かアメリカやイギリスより自殺者の少ない国の名前と数字を 上げることはしませんでした。 何故それをしなかったのでありましょうか。 それをすると「自殺者数=社会崩壊」という 自分の論理が破掟するからでございます。 人口10万人あたりの自殺者数は日本23.7人、米国11.0人でありますが 米国より少ない国にインドがあります。インドは10.5人です。 イギリスは6.7人ですがそれより少ない国にブラジルの4.3人があります。 インドもブラジルも日本とは比較にならないほど 環境、医療、教育、の社会資本は遅れた貧しい国でございます。 でありながらもインドの自殺者率は日本の半分以下、 ブラジルにあっては5分の1以下 なのでございます。 これらの数字から見えてくるのは、 自殺率は社会不安や貧困とは必ずしもシンクロしない、 という事実でございます。 しかし姜教授さまは自からの論理を上手に運ぶために都合の良い数字だけを羅列し、 根も葉もないとしか言いようのない乱暴な「社会崩壊論」を唱えられたので ございます。 よくテレビでハマコーがディベードで窮すると 「それじゃお前は日本国憲法を全部言えるのか」 と相手を恫喝することがございました。 いかな学者や知識人といえどもその専門分野において「博学多才」であっても、 「日本国憲法」をスラで云える、などという人物は皆無に近いのでございます。 そこをハマコーは日本人ならあたり前の常識だ、との理屈を持ち出して自からが 「日本国憲法」をソラんじてみせて相手を威嚇するのでございました。 自分だけが覚えている、 知りえた情報を出して相手をやりこめようとするヤリ口は 「いいがかり」とも言える卑劣な手口 でございます。 ハマコー氏にわたくしめが 「ならお前さん、ドライ・オーガズムのエネマグラのエクスタシーって 何んだか言ってごらん」 と尋ねたらハマコー氏はナント答えられたでありましょうか。 一度聞いてみたいきがいたしました。 人は「道によって賢し」といいます。 その専門知識をひけらかして相手を不安におとし入れ、 恐怖をあおることは不作法なことでございます。 年間3万人を超える日本人の「自殺」は 「風土病」であると述べられる精神科医がおられます。 日本人のうつ病についての著書もある精神科医の芝伸太郎先生です。 芝先生によれば名声も財産も貧困とはほど遠く無縁であった ミュージシャンの加藤和彦氏の自殺が記憶に新しいように、 貧困とは別の日本人特有の体質が「うつ病」を発症させ 自殺の増加の要因となっている、と言うのでございます。 日本人に多く見られるタイプの気質とは何んでしょう。 律儀、几帳面、清潔、誠実、真面目、権威と秩序の尊重、強い責任感、仕事熱心 といった上質の品格でございます。 ドイツの精神病理学者はこれらの気質の持主が陥りやすい「うつ病」を 「メランコリー親和型うつ病」と定義しました。 欧米やその他の国々では極めて少い精神疾患で ございます。 日本人はよく「自分はあの人に義理がある」という言い方をします。 世話になった感謝の念と「借りを返さなければならない」という切迫感を同時に持ち、 いち早くその「借り」を返すべく努め「借り」のある人に異様なまでに気を遣うのです。 当座の金に困って現金を借りる単なる「借金」も耐えがたい苦痛に感じられ、 ふつう恥ずべきことでない「住宅ローン」を組んだだけで 「うつ症状」が出る人もいるのです。 インド社会では「物乞い」は、 他人から「喜拾」という善行を導き出してやっている、 ぐらいの自負があります。 こうした「風土」ではいくら貧しくて困窮していても 「メランコリー親和型うつ病」を発症することが少ないので、 自殺者が少ないというのでございます。 こうした日本人気質を無視し自殺者数だけから 「社会崩壊論」を説くことは短絡的なのだ、 という指摘をご理解いただけるので ございます。 「飽食ニッポンにモノ申す、正義の味方、東大大学院教授姜尚中」商法にあっては、 「乱暴な数字いじり」での牽強付会に堕ち入ることのなきようご自重いただきたい ものでございます。 近ごろでは使い勝手のいい数字や統計を持ち出して世渡りをする 「情報屋」が目につきます。 勝間和代さまなども「その口」でございます。 和代さまは「情報Give5乗の法則」なるものを提唱されておるので ございます。 それは 「自分から情報を発信すればするほど、 良質の情報が集まってくるという法則」 だそうでございます。 和代さまは、よく国連や国内外の学者の統計や学説の数値などを持ち出されては 人を「動機づけ啓発」することを目的とした著書をものにされたり、 講演活動をなされていたりしているのでございます。 和代さまのお仕事とは 「できるかぎり情報を集め、その情報に勝間印をつけて発信」する、 ことでございます。 その為、一日200のメールを受け 100のメールを発信しているのだそうでございます。 「それがあたり前なのが現代のデジタル情報化社会です。」 とテレビで発言なされておりました。 毎日200のメールを受け100のメールを発信しなければ 今日の情報社会で一人前の職業人として認められないなんて、 「どんだけ〜」でございましょう。生き地獄、 でございます。 そんなことが出来るのは、 出会い系サイト関係に従事する人達ぐらいではないでしょうか。 まるで電動バイブを膣奥に仕込まれてあるような「おちつかない話し方」に加えて、 ありえないような「コミュニケーション能力」を発揮されて驚かされるので ございます。 和代さまは姜教授さまと同じく 「数字」を自分の論旨に都合よく活用される手法をお持ちなので ございます。 国連やその他の国内外の「統計」を持ち出しては 国民の貧困度数や幸福度数を論じられる、 のでございます。 心の問題、気持ちいい、とか幸福だ、とか痛い苦しい、 といった「感情」を数値化して順番をつけることは困難であります。 そうした人間の「心」の問題は相対的なものではなく主観的なものだから でございます。 たとえばある国の人達にとっては心地良い環境であっても、 他の国の人から見れば生き地獄としか見えない世界があります。 バプアニューギニアの原生林に棲む人にとって、 北極圏近くに住むイヌイットの人達の生活はどのように映るのでありましょうか。 わたし達は納豆、シオカラ、ウメボシを日常、なんの抵抗もないままに おいしく喰べています。 しかし多くの外国人にとってそれらの喰べものは 「信じられない」ゲテモノの喰いモノのようにしか見えないかも知れません。 こと左様に人間の「幸福感」といったものは 「統計」をもって割切りにして測ることに無理があります。 しかしながら和代さまは「情報」の提供が 「知的生産」である立場をとってございます。 インターネットを駆使して収集したデーター提供論文屋であっては、 影響力に限界があり、ポジションと仕事のスキルを上げることができません。 テレビでアフリカの難民への救援活動をワザワザ見せたりして 単なる「情報屋」から生き方指南へとスキルアップを計ることに怠りありません。 向上心、人間の生き方、幸福とは、という「勝間印」をつけての 「情報発信」がビジネス戦略なのでございます。 が「数字」や「統計」に木に竹を継ぐごとき無理筋な デコレーションされた教義を聞かされたり、読まされたりする側は たまったものではありません。 ビジネスの世界で自由な発想と独創性に欠ける人間に限って 「統計」や「数字」を持ち出します。 そうした「統計」や「数字」で自分の考えを権威づけようとするのです。 「官僚」のやり口、と同じ手口でございます。 しかし「統計」や「データー」を偏重し権威主義に陥った 「ソ連や中国」の共産党官僚国家が、「革新」や「創造」とは反対の 大きな後退を招いたことは歴史で明らかであります。 和代さまは朝日新聞の土曜版で 米国の心理学者ジョン・ゴットマン氏のことをご紹介されました。 ゴットマン氏は夫婦の会話を15分間観察するだけで、 90%の確率でその夫婦が15年後破局に至っているかどうかが分かる、 という研究結果を発表なされておる方だそうでございます。 この研究では夫婦の会話の感情を20種類に分け、 これを好意的か敵対的かに分類することで判断できるようになる とのことでございます。 夫婦に限らずあらゆる人間関係は「生き物」でございます。 堕落もするが成長もするのです。 時間とともに互いの心は変化し関係が緊密になったり希薄になったりするので ございます。 まして夫婦ともなれば愛し、愛されている、という恋愛感情とは別に 親戚や子供、財産、社会環境と色々な条件のなかで関係が成立し変化する ものでございます。 まさしくその状況は千差万別、同じ条件下で生きるカップルなど この世に存在しない、といっていいでしょう。 悪態をつきながら50年連れ添う夫婦もいれば、 年に平均300回SEXをして子供を5人も設けながらも ある日突然別れる夫婦もいるのでございます。 まことに夫婦のことはそのお好みのSEXスタイルと同じく 他人にはうかがい知れないこと でございます。 それを空気ボールのようにここを押したらこちらがふくらむ、 がごときその将来を90%の確率で予測することができる、 と主張するは科学やデーターを離れて三輪明宏や江原のごとき「神話」の世界の話 でございます。 和代さまほどの方がそれを人間学の正しい学説のデーターととらえられて 参考とすることを奨励されておることが、どうにも腑におちないのでございます。 人を動機づけるお仕事のタイヘンさは分かりますが、和代さまは 「ウォール・ストリート・ジャーナル、世界の最も注目すべき女性50人」 に選ばれた知性、でございます。 トンデモ情報の勝間印のタレ流しに、いささかのブレーキをお願いしたいもので ございます。 身すぎ世すぎの為に「統計」や「データー」を用いて世の不安をあおり、 利益をむさぼろうとする痴れ者の存在が目に余ります。 そうした不心得者による行状によって足元が揺らいでおります。 このところ巷で話題となっている 「ニッポンの男の年間SEX回数ダントツの世界最下位」 という「統計」でございます。 世界には色々な国があり人種がおりましょう、 しかしどう考えても日本の男のSEX回数が「世界最下位」なんて信じられないので ございます。 私自身をふくめて“日本国の男子の誰れもが承服していない話でございましょう。 どこの三太郎が調査した「数字」なのか、と調べてみました。 英国のコンドーム会社の大手のデコレックス社が、 世界主要26ヶ国の性生活を調査した「結果」だというのであります。 調査は07年に行なわれ、2万6000人を対象とした、といわれております。 恋人を含むパートナーを相手にした「年間SEX回数」では、 1位がギリシャの164回、2位ブラジル145回、と26ヶ国中19ヶ国が 年間100回を超えている、とあります。 その中にはインド130回(5位)中国122回(8位)などの アジア勢が含まれています。 そして日本が48回で最下位だというのであります。 日本の次のブービー賞の香港でも82回、というのですから日本の最下位は際だっている のでございます。 バカ言ってんじゃないよ、でございます。 いくらなんでも香港や中国やインド人に負ける分けないだろう、 と許せない気持ちで怒りで体が震えております。 理屈じゃありません。 アジアのそれぞれの国には何回か行っていますから、その国民性や性意識、 SEX事情はそれなりに知っています。肉体経験もあります。 それらを統合して我々日本人と比較して倍の回数の SEXをしているなんてとうてい信じられるものではありません。 意図的な作為が感じられます。 だいたい調査対象の平均年齢は、男女の区別は、独身既婚の区別は、 肝賢なデーターは一切不明でございます。 突然コンサート会場で自分の前で入場打ち切りの宣告を受けたような 理不尽さを感じております。 こうした「根拠」のない「数字」が一人歩きをして、 お父さんたちが真にうけることになり自信を喪失させることに、 拍車がかかることを恐れるのでございます。 現代の日本社会は人類がかつて経験したことのない 未曾有の高度情報化社会を迎えております。 戦いや農作業に明け暮れていればよかった近代までの、かつての日本人とは 全く違ったストレスにさらされて生きることを余儀なくされております。 それはまさに人間の生存の細胞力の限界といってもいいほどの、 厳しい現実でございます。 性欲もそうした抑圧にさられて、 セックスレスとなった一部の人達が見られるのも事実でございます。 しかしそうした混沌とした社会状況下にあっても 以然として大多数のニッポンの男たちの性欲は活発であり旺盛であります。 世界最下位だ、なんてケンスイや腕立て伏せであるまいし、 回数で性欲を計測するのはナンセンスでございます。 回数だけを云うなら未開地の原住民の方々こそダントツで年間300回、 一位でございましょう。 高度文明社会を営む男女のSEXは、センズリではありません。 相手の人格と都合を尊重しながら行なう心と体の「対話」でございます。 自からの性欲の高ぶりだけで猪突猛進する、 勝手は許されないのでございます。 特に日本社会は「空気」を大切にする社会でございます。 同種同言語を持つほぼ単一民族社会でございます。 気配、で相手の都合や調子が分かるのでございます。 察する、空気を読む、という雅な「文化」が生きずいてございます。 ここのところが野蛮な生殖行為を目的とした男尊女卑社会の男女の性行為と、 混同していただいては困るところでございます。 彼等に女性が恥じらいを見せながらホホを赤く染めるさまを 嘗でる「文化」があるでありましょうか。 「秘すれば華」と時空を超えての美学が宿っているのでありましょうか。 「文化」と「美学」が違えば「日本食」と「洋食」以上に 「性」の意味合いが違ってくるのでございます。 単純に回数で強い弱いを判定するは、言語道断で ございます。 「好色」を問うなら、現代の日本人は男女ともいかなる国家の男女の追従を許さぬ 世界最高峰にあるといってもいいのでございます。 紫式部の「源氏物語」の時代から浮世絵まで、 日本人はその稀代の「好色」を「芸術」の高みまで 昇華させてきた歴史的にド助平な民族 でございます。 現代においても日本における多様な性風俗は世界に冠たるものがございます。 「ソープ」での「名人、達人芸」などは「人類史の宝」といってもいいもので ございます。 銀座、六本木のクラブやキャバクラの姫君たちのあでやかさ、 世界のどこに本物の深窓の令嬢がデリヘル嬢と化して 家庭訪問をして下さる日本のような国がありましょうや。 素人、人妻、熟女、アイドル、SM、フェチ、等 日本のAVの世界は果敢にタブーに挑戦し 百花繚乱のごとく咲き乱れるトビッキリの名花に色採られて、 その映像はアジアを席捲し世界に飛翔しております。 どんな超一流ホテルでもSEX映像が見れて、 衛星放送では20チャンネル以上のポルノ放送が流れて各家庭にとどいております。 インターネットではいくらでも国内外の無修正AVが見放題、を享受できます。 雑誌にはエロDVDが必ずついてきて、 コンビニで売られている女性専門誌ではアイドルの男の全裸が掲載されてあり SEX情報の記事で埋まっています。 日本を代表する日経紙のオマ○コ小説が人気を呼び、 AV嬢やマッサージ師が書いた性感本がベストセラーになっております。 ホモの別天地新宿二丁目には世界からの愛好者が集い、 ヤリたがりの女たちはホストクラブに溢れています。 ツーショットや出会い系での援交は日常化し、都会や郊外にはファンタスティックで 斬新なデザインのラブホテルがいたるところに見られます。 韓流にハまった熟女たちで東京ドームの六万の席が満員になる国、 日本の男と女たちが満喫しているこれほどの豊かな性生活を、 かつて歴史上のどんな英雄偉人王侯貴族であっても 味わったことはなかったでありましょう。 こうしたこの世の性の極楽をプロデュースし、 その豊かな性消費生活を送る日本人が、好色において世界最下位である筈がない、 との主張はまっとうでございます。 世界の歴史から現代に至って検証すれば、今日の日本人は最も好色な人種である、 と断言してもさしつかえないので ございます。 特に近年においては日本人女性の性への開眼、欲求、は とどまるところを知らぬパワフルな現象が見うけられるのでございます。 実に大胆、向かうところ敵無しの感がございます。 秋葉原にあるアダルトショップなどに行かれましたら OLたちが電動バイブを持って走り廻っている姿を 容易に目撃することができるのでございます。 フェミニズムを提唱する人達は女性の権利を数えても 行くべき道、女性の性とその有り様を答えることはありませんでした。 女性たちは自からの歩むべき道を「AV」によって学び悟ったので ございます。 「AV」によって自分の性を自由に解放することが自立することなのだ、 ということを学んだのでございます。 女性たちはAVに出演することに躊躇しなくなりました。 性の商品化をいうならアイドルでもモデルでも歌手でも皆同じ、 と臆するところがないのでございます。 誰れもが下半身の松田聖子をめざすようになりました。 今日のAV出演志願の彼女たちには、何も教えるものはありません。 何故なら彼女たちは何百本もAVを見て 「AVとは何をするところであり、何をしなければならないか」 を十分に熟知した上でやって来るからです。 AVの誕生が間もない頃は、AVに出演する女性たちはAVはおろか、 SEXとは何かを全く知らない女の娘ばかりでした。 フェラチオのし方は勿論、声の出し方まで微に入り細に入り 教えなければなりませんでした。 あの時のアエギ声さえも満足に出せない娘も珍しくなかったのです。 足をツネって声を出させた、というケースも少なくありませんでした。 オマ○コなどの言葉を言えない娘ばかりでした。 オマ○コなんてはしたない言葉を言う位いなら、 いっそ犯された方がマシ、と涙目になるのでした。 撮影するシーンは犯されるシーンなのに・・・・ オマ○コを云えないなら、 と代わりにフライパンやドンブリを棒で叩かせたことがあります。 感じたら一回、もっと感じたら二回、グーグッと感じてもう我慢出来ない、 となったら三回叩きなさい、と指示を出しました。 SEXの最中に、いま絶好頂というそのときに両手を使って 棒で叩くしぐさをすることは大変難儀なことでした。 別に何かもっと分かりやすい方法を、と考えたのが あの「笛を吹く」というやり方でした。 オマ○コと言えないので変わりに「笛を吹く」、 そんな夢のような時代がついこの前まであったので ございます。 AVが普及しレンタルショップや、インターネットを通じて 直接女性たちがAVに触れる機会が格段に増えました。 AVを見て女性たちは覚醒しました。 百聞は一見にしかず、といいます。 読んだり聞いたりしたことではなく、 実際目のあたりにすることでSEXとは何か、 男とはなにか、女とはどうあるべきか、 性に関するあらゆることを学習したのでございました。 人類の歴史で、これほどあからさまに女性が 「性」を学ぶことができた時代があったでしょうか。 そしてそれは人生いかに生きるべきか、の哲学となって結実しました。 かって女大学といわれた男尊女卑の教育を受けてきた 日本の女性たちにとって「男の性」はまるで「暗黒大陸の魔物」 のよう思える恐怖の対象でした。 ヤマタノオロチのような存在、あるいはアナコンダに絞められて 体をこなごなに砕かれてしまうかのような畏怖の対象としてSEXをとらえ 「男の性」を想像していたのでございます。 が「AV」が教えてくれたもの、それはリアルな「現実」でした。 「男の性」は想像していたものとは全く違って、女性の性と比べて「性弱」なので ございました。 一晩に何千回も突かれてアソコが焼きヒバチをあてられたように 焦げてグシャグシャになってしまうかも知れない、 との幻想を見ておりました。 しかし実際の男の性は女の性と違って「正直者」なのでした。 穴があいているので何回でも受け入れられる女の性と違って 立たなければヤれない、実にやっ介で軟弱なシロモノだったのです。 男は女がSEXのその時に百%演技をして感じるフリをしても見抜くことのできない、 フシ穴の眼の持主だということも知りました。 一回イッたら急に借りてきた猫のようにおとなしくなってしまう、 豹変する性態も知りました。 アレもコレも真実を知ってSEXは男と女が気持ちよくなるためにある、 のではなく女の方が何倍も百倍近くも気持ちよくなるものだ、 ということを悟ったのでございます。 AVは男のためにでなく、女のためにあったのだ、ということを明確に理解したの でございます。 松坂のようかもしれない、ダルビッシュみたいだったら とどんな球を投げてくるんだろうか、と心配しながらバッターボックスに立ったら、 相手は小学生の少年野球の投手のような球を投げてきてガックリきた イチローや松井選手、のような姿が現代日本の女性なので ございます。 女性たちはもはやどんなタマでも打ってみせる、と自信に溢れています。 顔には決して出して本心を見せることはありませんが、 もはやどんな「投手」に対しても見下し気分でございます。 爆弾を抱えて特攻で男が死ななくなった戦争のない平和な時代が続けば、 当然のごとく「男らしさ」と「女らしさ」の姿に変化が生まれるので ございました。 日本の男たちはAV鑑賞を深め「ヘタで弱い」を克服して真の日本男児とならんと、 SEXの「方法と技術」を心新に極めるか、 それともAVから背を向けてSEXのニートとなって 男としての人生を葬り去るのか、の岐路に立たされております。 「AV」はそれを見る男性に性的な興奮を提供しました。 「AV」はそれを見た女性に、人生を変える力を与えました。 「AV」は女性のためにあるのだ、日本の男と女の実際を見ればそう断言すべき でございます。 |